由来

京都から大阪・枚方へ

京都・京阪三条駅近くの新柳馬場通で米屋を営んでいた建物を、今から約100年前、旧枚方宿のはずれ(枚方公園駅の東)に移築した古民家です。間口五半間(約11m)奥行き六間(約12m)の「二列六室」と「火袋・通り庭」からなる典型的な京町家です。
京都から淀川の舟運で運んだ材を使って移築された建物を、木の温もりを大事にするツキデ工務店様・平成の匠の技により、温もりと心地よさを兼ね備えた現代の京町家として生まれ変わりました。

枚方宿の造り酒屋・万庄

ひらかた京町家は、江戸時代に京街道・枚方宿で米屋や造り酒屋をしていた万庄の分家の店として、京都の新柳馬場通りに建てられたと思われます。
その後、京都の店をたたんで枚方に戻る際に現在地に移築されました。枚方宿の街道筋はすでに多くの家が建ち並んでいたため、すこし離れた現在地に移築先を選んだようです。
枚方宿は、江戸から京都までの東海道を大阪に延長する形で整備された京街道の宿場町で、淀川の舟運の船着き場としての役割も併せ持っていました。

枚方宿 鍵屋資料館

万屋から万庄へ、そしてひらかた京町家に

江戸時代初期に万屋庄兵衛という名が、後期には万庄(よろしょう)という屋号が、地の造り酒屋として記録に残っています。そして万庄の支店として建てられた、ひらかた京町家も、米屋・酒屋であったため、米屋格子と呼ばれる頑丈な造りの格子戸が使われています。
京都の町家は、商売により格子の形がちがい、米屋格子は、米屋や酒屋などで使われるもので、俵や樽などの重い荷物が当たっても壊れにくいように頑丈な造りになっています。

改修前のみせの庭・みせの間の表

ひらかた京町家とくらわんか舟

枚方宿は、くらわんか舟という、淀川を京都と大阪の間で往来していた三十石船などに飲食を提供していた茶船でも有名です。
この茶船の鑑札や掟・証文・申入約定などが、ひらかた京町家に残されていました。おそらく、明治期に宿場町が徐々に衰退していくなか、くらわんか船を盛り立てようと、万庄が茶舟の権利を買い取ったものだと思われます。

茶船(くらんわか舟)鑑札

くらわんか舟と波佐見焼

このくらわんか舟で使われていたのが、波佐見焼と呼ばれる当時の量産品の磁器です。茶船で使われていたと思われる焼き物が残されていました。
波佐見焼は、大量生産品として、積み重ねて焼き上げられたため、碗の底に、上に重ねた碗の跡が丸く残るなどの特徴があります。
くらわんか舟で使われたためか、江戸時代の庶民が使う波佐見焼などの大量生産品の磁器をくらわんか椀と呼ぶようになりました。

ひらかた京町家に残されていた波佐見焼

豊かさを感じられるひらかた京町家へ

木や土の温もりや感触、日常生活のなかの伝統や歴史の流れ。そんな忘れがちな和の伝統に触れることで、ひとりひとりが自分自身の中にある豊かさに気づくことができる場でありたいと願っています。

客人玄関の飾り(嵯峨御流・中西千里甫社中花会:2017年5月)



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