由来
万屋から万庄へ、そしてひらかた京町家に
江戸時代初期に万屋庄兵衛という名が、後期には万庄(よろしょう)という屋号が、地の造り酒屋として記録に残っています。そして万庄の支店として建てられた、ひらかた京町家も、米屋・酒屋であったため、米屋格子と呼ばれる頑丈な造りの格子戸が使われています。
京都の町家は、商売により格子の形がちがい、米屋格子は、米屋や酒屋などで使われるもので、俵や樽などの重い荷物が当たっても壊れにくいように頑丈な造りになっています。
ひらかた京町家とくらわんか舟
枚方宿は、くらわんか舟という、淀川を京都と大阪の間で往来していた三十石船などに飲食を提供していた茶船でも有名です。
この茶船の鑑札や掟・証文・申入約定などが、ひらかた京町家に残されていました。おそらく、明治期に宿場町が徐々に衰退していくなか、くらわんか船を盛り立てようと、万庄が茶舟の権利を買い取ったものだと思われます。
くらわんか舟と波佐見焼
このくらわんか舟で使われていたのが、波佐見焼と呼ばれる当時の量産品の磁器です。茶船で使われていたと思われる焼き物が残されていました。
波佐見焼は、大量生産品として、積み重ねて焼き上げられたため、碗の底に、上に重ねた碗の跡が丸く残るなどの特徴があります。
くらわんか舟で使われたためか、江戸時代の庶民が使う波佐見焼などの大量生産品の磁器をくらわんか椀と呼ぶようになりました。